プロフィール

プロフィールと私の音楽ストーリー

小崎音楽教室 代表

小崎 友也(こざき ともや)

□「あなたらしさ」を音に転換する音楽コーチ

□プロを目指す音楽家の能力を引き出すことを最も得意とする、また「300人以上」を個人レッスンしたことがあり、一人ひとりの音楽家に対して“具体的”で“わかりやすい”説明が可能

□ZOOMやメッセンジャーといったオンラインでのレッスンも行なっており、直接会えない遠方の生徒もレッスン可能

 

・約10年にわたり、のべ1000人以上の音楽家に対して指導する。

・最新の機能科学・行動心理学に基づく手法で、300人以上の個人レッスンを行い、参加者からは、「今までにないレッスン」「斬新なレッスン」「目からウロコのレッスン」と呼ばれる。

・2018年『音楽の能力を引き出す深魂音メソッド』を開発。受講者は自分の本当に求めている音に気づき、音楽そのものの喜びに目覚める。

・指揮の個人レッスンも行なっており、これまでに20名にレッスンを行い、全国各地で活躍中。

・1対1の個人レッスンだけでなく、吹奏楽団に対しての指導にも定評があり、全体の意識を1つの方向にまとめ上げる力は、どの指導者からも絶賛されている。

・指導した団体をそれぞれ初の四国大会・全国大会へ導き、1対1に限らず、1対複数の指導でも成果を上げ、レッスンの度に音が劇的に変化することから‘小崎マジック’と呼ばれる。

・大学在学時に自らのアンサンブル団体を立ち上げ、アレンジ力を高める。

・指揮者としてこれまでのべ20団体以上を指揮しており、共演者からは‘また一緒に音楽したい’という声を多数もらう。

・演奏会の司会者としても活動しており、観客と演奏者を繋ぐトークに定評があり、ファンも多い。

・これまでに数多くの演奏会の企画・運営を行なっており、毎回観客参加型の演奏会として好評を得ている。

・プロのアンサンブル団体の演奏会企画・運営・営業といったコンサルタント業務も行なっている。

・中学校教諭一種免許状(理科)、高等学校教諭一種免許状(理科)所持

小崎の音楽ストーリー


19891220日 徳島県阿波市に生まれました。

 

4人男兄弟の次男として生まれたので、兄弟を見て気を遣う場面が多くありました。

自分が折れてその場が丸く収まるならそれでいいやって考える子どもでした。

他の兄弟は言いたいことを好きなように言っている印象があり、それをいつもいいなーって羨ましがっていました。

僕の中では常に他の兄弟との比較があり、兄弟の存在をものすごくコンプレックスに感じていました。

 

それでも僕は子どもの頃から目立って人前に出ること・みんなをまとめてリーダーシップを発揮することが大好きでした。

その性格のあいまって、中学生のときは自ら立候補して生徒会長を務めました。

 

ここで僕と音楽との関わりについてお話ししていくと、

3歳から10歳のときにまでピアノを習っていました。

ピアノ以外の楽器だと、9歳から小学校卒業まで学校の鼓笛隊でトランペットを吹いていました。

 

でもめちゃくちゃうまかったわけではなく、

当時の関心はサッカーや野球・テレビゲームにあり、

家に帰ってからはほぼほぼテレビゲームをするどこにでもいる子どもでした。

 

中学校入学とともに野球部に入部し、一時期完全に音楽から離れました。

中学3年間は野球漬けの日々で、毎朝7時にはグラウンドに出て練習していました。

しかし、野球部では捻挫や腰痛などの脚・腰回りのケガにいつも悩まされてました。

 

身体のトラブルがあったこともあり、この当時から、トレーニング理論や運動の原理を自分なりに勉強していました。

こうして独学で学んだ理論や考え方を基に、

後輩のバッティングフォームを見たりアドバイスするのが好きで、

自然と当時から指導していました。

 

でも音楽そのものは大好きで、

中学3年生の選択科目(音楽・美術・書道)の際に学年の男子で唯一、音楽を選択科目に選びました。

そして、野球部を引退した中学3年の夏、急に音楽がまたやりたくなって、そのまま音楽部に途中入部しトランペットに復帰、さらにはクラス合唱のピアノ伴奏もやってみたくなって、5年ぶりにピアノを再開しました。

今思うと野球に向いてたエネルギーの行き先がなく、有り余っていたのでこれをぶつける先が欲しかったのかなと思います。

 

そうして高校に進学すると、迷わず音楽部(僕の母校は吹奏楽と弦楽が合わさってこの名前でした)に入部し、そこで初めて本格的に音楽に熱中しました。

衝撃的な指揮者との出会い

そして当時高校1年生のときに、プロのオーケストラのアウトリーチ活動で偶然僕の高校が選ばれて、プロのオーケストラプレイヤーの方々と演奏しました。

その時衝撃的だったのが、そのオーケストラを振りにきていた指揮者でした。

名前は山田和樹さん。

リハーサル以外の空き時間に、僕たち高校生だけを指揮してくれたのですが、

 

その時のみんなから出てくる音が、いつも指揮を振ってくれている顧問の先生の時と全然ちがう!

僕自身もトランペットを吹いていて、めちゃくちゃ吹きやすくて、なにより音楽って面白い!指揮者ってすごい!ということを初めて身をもって体感した瞬間でした。

 

そうした経験を経て、高校2年生になった時、僕にとっての大きな転機がやってきました。

音が全然出ない!

 

いろいろ考えたり奏法を実験したりしているうちに、

トランペットが全然吹けなくなってしまいました。

 

僕の高校は部員が少なかったこともあり、高校2年生になると僕がトランペットパートの最高学年となりました。

“自分がもっとしっかりとみんなを音で引っ張って行かなきゃ!”

という思いがとても強く、いろいろと自分なりに研究しながら楽器を吹いていると、全然吹けなくなってしまったのです。

 

全然吹けないというのがどんな状態かというと、トランペット本来の音域は2オクターブ半と言われてるのですが、僕の場合1オクターブ、調子が良くて1オクターブ半までしか出ない(チューニングのB♭から上の音が出ない)ようになってしまっていました。

 

当時は、

英語の教則本を取り寄せて自分で翻訳してみたり、

奏法に関する論文を読み漁ったり、

音楽家のインタビュー記事の中で自分に活用できそうな記事を集めたり、

20人以上のプロの音楽家にアドバイスを求めたりしており、

そうして得た情報を基に、

 

とりあえず試してみる

↓↓

試したが上手くいかない

↓↓

別の方法を試してみる

↓↓

そうしているうちに自分の演奏方法が壊れていく

↓↓

どんどん吹けなくなっていく

↓↓

気持ちばかり焦ってパニック状態に

↓↓

やればやるだけ迷路にはまって自信をなくしていく

 

という最悪の負のスパイラルに入っていました。

 

なんとかこの状況から抜け出したいと思って毎日日記やメモをつけていたのですが、

気がつけば心の余裕のなさとともにどんどん文字か汚くなっていました。

当時は本当に何をやったらいいか全然わからず楽器の上達に関係ないことをたくさんやってしまっていました。

 

例えば筋トレ。

僕の高校は進学校だったこともあり朝練習で音を出すのが禁止されていました。

それでも何か練習したい、と思っていた僕は、当時仲の良かった柔道部・野球部・ラグビー部の同級生に混じって筋トレをしていました。

今ならば絶対にやることがないメニューですが、当時の僕はこれをやったらトランペットが上手くなるかもしれない、と本気で思って取り組んでいました。

 

そうして音が出なくなっていった僕は、高校2年生の吹奏楽コンクールの1週間前。

部長と金管セクションリーダーに呼びだされ、トランペット1stから2ndにパート変更することになりました。

楽譜上に書いてある音が出ていないから仕方がないということで自分を無理やり納得させていましたが、

ものすごく悔しくて、情けなくてその日は一人で思いっきり泣きました。

 

“なんでおれはこんなにいろいろやってるのに全然成果が出ないんだ?どうやったらうまくなれるのか?おれには才能がないのか?いや、そんなことはない!絶対うまくなってやる!”

 

そうやってもがいているけど、もがいてももがいても全然上達しない。

本当に当時は楽器の吹き方・練習の仕方が全然見えませんでした。

結局、高校3年生で引退するときまでずっとこのような状態でした。

大学進学とともに初めての一人暮らし

しかしながら、大学に入ってからは微々たるもののトランペットの上達を感じられるようになりました。

そのきっかけが県外の大学に進学し、指揮を振り始めたことです。

 

そもそも僕が指揮を振り始めたきっかけは2つありました。

1つは単純に興味があったからです。高校生の時に体験したプロの指揮者のことが頭の片隅にあり、自分でも振ってみたいという気持ちがありました。

もう1つは、学校の先生になった時に顧問としてやっていけるようにということです。

 

僕は当時、中学校の先生を目指していました。

学校の先生になって、吹奏楽部の顧問になって、子どもたちと大好きな音楽をめいっぱい楽しむこと。

これが当時の僕の目標でした。

 

しかし、僕が進学したのは理系の工学部。

僕が大学で取得できる免許は中学・高校の理科教諭の免許です。

 

当時の僕が考えていたのは、

“もし仮に学校の先生になれたとしても僕はもともと野球部だったし、どこの学校にも音楽の先生がいる。だからこのまま学校の先生になったとしても、吹奏楽部ではなくスポーツ系の部活の顧問になってしまうかもしれない。”

ということでした。だから少しでも吹奏楽部の顧問になれる確率を上げるために、指揮を振ろうと考えたのでした。

この顧問になる確率を上げるために、大学近隣の中学・高校に行って部活指導させてもらったり、同じ大学の部員の指導をさせてもらったり、学校の音楽の先生から直接指導のコツをたくさん学んだりしました。

 

こうして指揮を振る時間が長くなり、どんどん楽器を演奏する時間が減っていきました。

そうすると驚いたことに、

 

高校生のときより楽器を吹く時間が減っているにも関わらず、

以前よりもうまくトランペットを吹くことができたのです。

 

大学生当時の僕は、トランペットを吹くことよりも指揮を振ることに関心が移っており、

あれこれ悩まずにトランペットを吹くことができるようになっていたのが一番の理由でした。

 

あと、大学自体が高知県の自然の中にポツリとある場所で、大学周辺に大学生らしい遊びができる場所がほとんどなく、多くの誘惑や情報に惑わされることなく、高校生の時に仕入れていた多くの情報をじっくり時間をかけて落とし込んでいくことができたのもよかったと思いました。

それでも、以前より吹けるようになったとはいえ、それが持続できなかったり、トランペットを吹く日によって全然パフォーマンスが安定しませんでした。

 

だから、当時指導した相手が同じような悩みを抱えていてもどうすることもできませんでした。

 

こうして大学1年生から3年生の終わりまで丸々3年間指揮を振りました。

 

こうして指揮者として音楽に関わるようになると、自分がトランペットを吹いていたときとは違った悩みがたくさん出てきました。

 

僕と方向性が合わずに部員が辞めていったり、

練習ではアイコンタクトがバッチリできるのに本番になると全然目が合わなかったり、

うまく演奏がまとまらずに誰かのせいにしてしまったりと。。

 

当時の僕はそれぞれの問題にどう向き合っていけばいいか全然わかりませんでした。

こうして4年生のとき、教員採用試験のために指揮者を一旦引退しました。

音楽から離れると、一気に時間ができました。

 

僕は勉強ばかりやっていると飽きてしまい、何か気分転換できないかなーと思って、本を読むようになりました。

当時はやっていたのが、ピーター・ドラッカーの『もし高校野球のマネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』でした。

そこで読んだ内容は本当に目から鱗でした。

 

"これまで指揮者として演奏者と関わってきたり、指導者として生徒たちと関わってきた中で、うまくいかなかった原因・答えが全部ここにある!"

 

ほんとこんな印象でした。

そこからは自己啓発・経済学・心理学の本を徹底的に読み漁るようになりました。

 

もっと早く知っていれば・・・

 

こう思うことが、読めば読むほどどんどん出てきました。

こうした情報をキャッチできたのは、

大学2年生の時の、1人の社長さんとの出会いがあったからでした。

大学時代の出会い

大学時代、僕は大学内で新たなサークルを立ち上げたり、

音楽関連のイベントを多数手掛けました。

 

自分でイベントを企画して進めていくうちに、

自ら起業して会社を立ち上げている社長さんに出会いました。

 

この社長さん、僕が大学2年生当時、60歳手前くらいだったのですが、

めちゃくちゃエネルギッシュで目がキラキラしていてとても紳士でした。

 

僕のことをものすごくかわいがってくださり、

高知にきている時は必ず連絡をくれて飲みに連れて行ってもらいました。

そこで、初めて『生き方』や『人としての在り方』なんかを教えてもらいました。

そんなことこれまで学校ではもちろん、誰からも教わったことがありませんでした。

 

この社長さんと度々お話しさせていただく中で、

僕の中に1つの思いが芽生えてきました。

 

教育って学校か塾でしかできないと思ってたけど、会社の中でもあるぞ。自分で会社を経営してそこで人を育てるのって面白い!

 

このあたりから学校の先生にならなくてもいいかな?ってばくぜんと考えるようになりました。

 

大学で指揮を振り始めるようになって、

 

“指揮を振るということそのものが、人を育てるということだ!”

 

ということに気づきました。

 

だから、

会社経営を通じて人を育てることの本質が掴めたら、

それを指揮の場面で活用することができる。

 

そうやってたくさん本を読んだり指揮活動をしていく中で、

 

【おれ、世界で活躍する指揮者になりたい!】

 

この思いが新たに芽生えてきました。

この想いが芽生えたのが23歳、大学院1年生のときでした。

 

こうなると、教員への意欲が一気に冷めてしまい、

【指揮者になりたい!!】

の思いばっかりになっていました。

当時大学院では物理教育の研究をしていましたが、

逃げるように大学院を中退しました。

初めての社会人生活、営業マンになる

そして23歳で働き始めることになるのですが、

それまでろくにアルバイトすらしたことのない僕はプライドばかり高く、

完全に社会を舐め切っていました。

 

誰にでも出来る仕事はしたくなくて、

スマートにカッコよくたくさん稼ぎたい。

 

当時考えたのが、

お金を稼げばそのあと好きなだけ音楽ができる!

と考えて、

いったん音楽は置いておいて、

お金を稼ぐことに集中するようにしました。

 

自己啓発の本を読むと、

結構な高い割合で自己啓発本の著者が営業職からキャリアをスタートしていることも気づいていたので、

僕もそれにならって営業職でしっかり稼いで経済面での成功を目指しました。

音楽を断ち切る!

やるからにはとことん徹底的にと考え、完全に音楽から離れる決断をしました。

 

当時、音楽への思いを一旦断ち切るために僕がやったことは、次のことです。

 

・指揮を振りにいってた楽団の人と連絡を一切断つ

・音楽指導に行っていた学校に断りの連絡を入れる

・自分の指揮棒を人に預ける

・音楽を聞かないためにYouTubeのアプリを消す

 

お金を稼ぐステージを早く終わらせて、音楽のステージに行こう!

 

ずっとこう考えていました。

当時の僕の思考はこんな感じでした。

 

音楽をやるために今は音楽のことを考えるべきではない。

音楽をやることは『逃げ』だ。

 

これを本気で思っていました。

 

こうして丸々2年間、完全に音楽から離れて、

365日毎日お金を稼ぐことだけを考えて朝早くから夜遅くまで働き続けました。

まったく売れなかった営業マン時代

こうして営業マンになり、

2年間の間に肥料・農薬、ウォーターサーバー、日用品、サプリメント、不動産、広告媒体、保険などたくさんの商品を扱って営業しました。

 

しかし、全く売れません!

 

こんなはずじゃない。必ず売ってみせる!

 

売れないから、勉強して勉強して、

またさらに営業のセミナーや目標達成の勉強会に行きまくり、

毎朝5時に起きて、アファメーションして、

お客さんとのやりとりをロールプレイングして、

通勤中の車では自己啓発のオーディオブックを流して、

会社に行く前には必ずマクドナルドに寄って、

営業の勉強をしていました。

 

こうして毎月本代だけで約3万円、

読んだ本も300冊はゆうに越えていました。

それでもまったく契約が取れない。

 

会社の先輩に相談して、何度もロールプレイングの相手をしてもらったり、営業に同行してもらってアドバイスをもらったりもしましたが、結果は同じでした。

 

やってもやっても成果が出ない

↓↓

だから別の方法を試す

↓↓

どの方法をやっても成果が出ない

↓↓

ポジティブに捉えようと頑張る

↓↓

それでも成果が出ない

↓↓

だんだん自信がなくなってくる

↓↓

営業するのが怖くなる

 

気がつけば、

高校時代に経験したトランペットの音が全く出ない時と全く同じ状況に陥っていました。

 

完全に負のスパイラルでした。

あれ?会話ってどうやってやってたっけ??

そうしているうちに、

どうやってコミュニケーションをとったらいいかわからなくなってしまいました。

 

コミュニケーションの仕方がわからない!

 

その原因は2つありました。

 

1つは、

相手がこうやって言ってきたらこう返すという応酬話法を考えすぎてしまい、

気がつけば自然なコミュニケーションが全く出来なくなっていました。

 

2つ目は、

相手の話す言葉と音の違いを敏感に感じてしまうからでした。

どういうことかというと、

言葉としては、

「またお会いしたいですね」

って言ってるのに、

言葉を発した時の音としては、

「二度と会いたくたくない」

って言われてる感じでした。

この違和感は、営業を続けていくにつれてどんどん大きくなっていきました。

こうなると、相手が話してる内容が本音なのか建前なのかを考えてしまうようになり、他人とコミュニケーションを取るのが怖くなってしまいました。

 

こうして僕はコミュニケーションがどんどん下手になり、

自信もどんどん失い、

さらには人間不信になっていました。

 

 この時の僕の状況は、まさに最悪でした。

 

お金は貯まるどころか、全然増えない。

それどころか借金が増えてる。

人間関係も悪いし、

コミュニケーションが全然取れなくなってるし、

お金もないし、

営業職で全然成果も出ない。

音楽もしていない。

 

それでも、

 

このまま努力していればきっといつか報われるはずだ

 

と自分に言い聞かせ、2年間やってきましたが、

あるとき気づきました。

何かがおかしい。こんなに休まずにやってるのに何でうまくいかないの?大好きな音楽を断ち切ってまでやってるのになんで?

 

音楽から離れていた丸2年間、本当は自分がどうしたいのかうすうす感づいていましたが、

その思いは逃げになってしまうと思って、

自分の本音に完全にフタをしてしまっていました。

 

そして、ついに自分の中でもう我慢できない瞬間がやってきました。

やっぱり音楽がやりたい!

この思いが抑えようにも抑えることができなくなり、

27歳の時に音楽活動を再開しました。

 

完全に音楽から切り離されていた僕の生活の中にまた音楽が戻ってきました。

この時、完全に音楽から離れてお金を稼ぐことに集中したからこそ、

 

おれにはやっぱり音楽だ!

 

という確信が高まりました。

 

こうして水を得た魚のごとく音楽指導や指揮活動を再開していくと、

次々に奇跡的な現象が起こっていきました。

『小崎マジック』と言われるようになって

新たに指導に行き始めた学校の吹奏楽部員や顧問の先生からは、

合奏のたびに劇的に音が変化することから、

『小崎マジック』と言われるようになりました。

さらに、

個人レッスンをしたクラリネットを吹いている高校生の生徒さんは、

県吹奏楽選抜に選ばれるだけでなく、ソロコンクールでも最優秀賞を獲得しました。

そのほかにも、コンクールに一度も入賞したことない生徒さんが入選するようになったりと、

それまでの僕の成果とは比べものにならないくらい大きな成果が目に見えて現れるようになりました。

 

音楽を断ち切っていた丸2年間は、

音楽の勉強は一切していなかったし、

さらに言うと音楽の現場にも全く顔を出していなかったのに、

指導した生徒さんたちの変化率が以前とは比べものにならないくらい高まっていました。

 

2年間、苦しみに苦しみ、這いつくばるように悩みながら、

お金を稼ぐために学んだこと(営業・自己啓発・心理学・生理学など)の全てが、

音楽指導に活かされた瞬間でした。

そして起業、音楽教室スタート

こうして、

 

自身がたくさんの経験を積んでいく中で気づいた音楽本来の喜びを、

一人でも多くの人に味わって欲しい。

 

そういった思いから20181月に音楽教室をスタートさせ、

さらにこのホームページを立ち上げ、

ブログを書き始めました。

 

僕が音楽教室を始めるにあたり、音楽をやっている特定の人からものすごく反対されたこともありました。

 

音楽大学も出てないのにお金取って教える資格があるの?

音大出てる人に失礼じゃないの?

音楽で食っていくのはそんなに甘くないぞ

 

当時の僕は、こんなことをかなり言われてきました。

さらには、

 

“小崎がやっていることはあやしい”

“あいつの関わると洗脳されるぞ!”

 

こんなことを言われたこともありました。

 

でも、

僕の教室には生徒さんがすでにいたので、

この目の前の生徒さんの能力を引き出すためにもっともっと何が出来るだろう?

このことばっかりを考えていると、

自分が音大に行ってるとか行ってないとか批判のことを考えるヒマがありませんでした。

 

新しく何かを始めようとした時は、

必ず反対意見を言ってくる人がいるということを強く体感しました。

 

そして201812月から活動の拠点を四国から関東に移しました。

 

それに伴ってZOOMやメッセンジャーを使った遠隔テレビ電話レッスンを行うようになり、

僕も生徒さんもお互い自宅にいながらレッスンができるようになりました。

東京に来てから、

僕自身の成長とともに、

レッスンを受けにくる生徒さんの層もどんどん変化してきました。

プロの第一線で活躍する奏者や合唱・吹奏楽全国大会常連校の生徒さんやYouTuber、発達障害を持った生徒さんなどユニークで高い音楽性や感性を持った人が集まってくるようになりました。

こうして気がつけばこれまでに300人以上の音楽家を個人レッスンしてきました。

僕が今目指しているもの

僕が今目指しているのは、

 

一人ひとりの音楽家が周りに依存することなく、

完全に自由に自立した状態で、

音楽をやる。

そうして高いエネルギーを世界中の人に届ける。

 

僕は、音楽のチカラを誰よりも信じています。

音楽で出来ることは無限だから、

死ぬまでずっと追求し続けられる。

音楽という手段を使って、

言語や人種、性別、障害をこえた世界で人々が深いコミュニケーションを取って繋がり合う。

そうした世界を目指して活動しています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

これからもよろしくお願い致します。